みなさんは歴史が好きですか?
僕は歴史好きで学生の頃から社会の先生の後をついて回りいろいろと詳しく歴史の話を聞いていたことを思い出します。
そんな歴史が好きな人もそうじゃない人もここで少し歴史が好きになってくれたらなあと思いながらこの記事を書きたいと思います。
今回は、僕がおすすめする歴史上の2人の人物について生き方をご紹介していきます!!
勝海舟に見る生き方!
まずは一人目、勝海舟です。
歴史に詳しくない方はだあれ?といった感じかもしれませんが、かなり知っている人が多いかなと思います。彼の経歴についてざっくりとお話ししたいと思います。
犬に襲われ急所をやられた
勝海舟は、1923年3月、江戸の旗本の家に生まれます。
旗本とは、幕府に直接仕える家臣で、一万石以下の武士を指すので今で言う国家公務員の家に生まれたと思ってもらえればわかりやすいです。
そんな海舟は9歳の頃、とんでもない事件に巻き込まれます。
なんと病犬に急所を噛まれてしまい、死のふちをさまようのです。当時の医者には、もう今晩も持つかどうかわからないという状況を伝えられ、家族はもう悲痛な空気に包まれていたでしょう。そんな中、父・小吉は医者に最善を尽くすように頼み、神社に祈願などをしたり海舟の回復を切実に願っています。その甲斐あって、海舟はなんとか一命を取り留めるのです。
このエピソードで海舟の父はとても息子思いの人だったのだなと伺えます。
そんな立派な父の思いを受け継ぎ、海舟は幕府を背負う人間に育っていきます。
ちなみにこの事件を機に海舟は例え、小さな犬でも怯えるようになってしまったのだとか。
男性にとってはキンタマを噛まれるなんて想像したくもないほどですが、そりゃトラウマものですよね。
日本の海軍創設へ奔走!江戸無血開城の交渉役にも!!
そして勝海舟が幕臣になってもっとも活躍した点は、幕府海軍の創設と、江戸無血開城の交渉役として活躍したところです。
当時の江戸時代は、あの有名なペリー来航でバタバタしていた時期です。江戸幕府は、フランスと組んで近代的な海軍を作ろうとします。そこで技術を学ぶ役人の一人に選ばれたのが勝海舟でした。長崎で訓練をしたのち、勝海舟は幕府の命で幕府が所有する船・咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ渡り、外国を見にいきます。当時の日本はまだほぼ鎖国ですから、海外に渡り現地を見知る人というのは貴重中の貴重な人物なのです。
そして海舟はアメリカから帰国すると、江戸幕府ではなく、日本の海軍創設を考えます。
しかし、歴史は待ってくれません。帰国した後、国内では「戊辰戦争」という近代日本では最大の内乱が勃発してしまいます。長州藩・薩摩藩(今の山口・鹿児島にあった藩)率いる新政府軍は京都から進軍して少しずつ幕府がある江戸に軍隊を差し向けるのです。
そこで勝海舟は、海軍のことは脇に置き、和平交渉へ乗り出します。
そして新政府の総大将である西郷隆盛と会談を行うのです。会談の時、勝海舟は西郷隆盛にわざと江戸の街を見せ、「この一軒一軒に住う江戸の町民を犠牲にする未来があなた方の描く新政府なのですか?」と西郷隆盛に迫ったというような話があります。実際はどうなのかわかりませんが、西郷隆盛は勝海舟の奮闘による交渉の末に、江戸の総攻撃を取りやめるという和平交渉が成立するのです。
そんな彼のモットーは?
そんな勝海舟のモットーがとてもユニークでなおかつ素敵なものなので紹介します。
「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ」
https://iyashitour.com/archives/21318
人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。
https://iyashitour.com/archives/21318
そんなときには何もやらぬのが一番いい。
ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。
いかがでしょうか?
愛情と下町育ちの彼だからこそ、こういった人情と時の運を掴む才能を感じさせるそんな考え方ができたのだろうなあと思います。
特に「自分の価値は自分で決める」、「人生は炎の時と灰の時がある」という考えは辛い時に見失ってしまいがちなところを良く勝海舟は理解しているのかなと思うのです。
余裕がない時だからこそ、こういう余裕を持った考え方ができるよう勝海舟のモットーを取り入れたいですね。
夏目漱石に見る生き方!
そして二人目の人物は夏目漱石を紹介したいと思います。
夏目漱石と言えば、「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などの有名な日本文学を書いた戦前の日本文学を代表する作家の1人です。
彼は作家以外にも英語教師という本職がありました。なぜ彼は作家の道を志したのでしょうか?
その経緯が今回、お伝えしたい生き方と夏目漱石が遺した言葉につながっていきます。
英語の大教師としてイギリスに留学!!
学生時代から英語がずば抜けて得意だった夏目漱石は、高校を卒業後、大学は英文科を先行。
夏目漱石が入ったのは帝国大学、後の東京大学です。かなり学力が高かったことがわかります。
しかし、夏目漱石はこの頃から不安障害や鬱、悲観主義的な思考を抱えてしまいます。
それでも大学を卒業し、東京の名門学校の高校教師として働き始めた彼ですが、心理的なストレスで逃げるように地元へ帰ってしまうのです。
そこで以前から知り合った正岡子規に俳句を教わり、文学の才能を開花させていきます。
俳句で名声を得た夏目漱石。
しかし国から英語教育研究のため、イギリスへ留学を命じられてしまいます。
漱石は留学のためイギリスを赴くも、さらにそこで日本人と欧米人のギャップを肌身で感じ、さらに心が荒んでしまいます。
心が荒んでいるにもかかわらず、夏目漱石は留学先で観光をするわけでも、仲間を作るわけでもなく、ただただ英語文学の教育分野を研究することに没頭しました。
邁進するあまり、彼は重篤な精神疾患を患ってしまいます。
心を病んだ先に彼が見たものは…
そんな病状を抱えてなお、帰国をしてから夏目漱石は教壇に立ちます。
大学の講師として英語を教えるも、評価は最悪。中には態度の悪い学生まで現れる始末です。
夏目漱石はつい学生を叱責するのですが、なんとその生徒はその後、自殺してしまいます。
世間の悪評などで精神がおかしくなってしまった夏目漱石は頻繁に癇癪を起こし暴れ回るように。
そんな彼にまた高浜虚子という小説家から病気の療養で創作活動を勧められます。
その創作活動で執筆したことで「吾輩は猫である」が誕生します。
小説が好評を受け、彼は作家としての道を切り開き、朝日新聞社に入社、数々の文学作品をこの世に残していくことになるのです。
夏目漱石が遺した言葉とは?
そんな彼が遺した言葉があります。
「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!」
今までの夏目漱石の苦労がこの言葉に凝縮されているなあと感じます。
晩年、胃潰瘍などを患い、弱っていく夏目漱石。
しかし、彼は自分の生き方を最後に見つけられたからこそ幸せな人生だったのではないでしょうか?
自分の生き方を見つけられる人はほんの一握りだと思います。さらに言えば、人生の中ではある一瞬しか叶わない人もいるかもしれません。
最後は根性論のようなお話はなってしまいますが、「おれのすすむべき道」を掘り進めなければ見つからないということを夏目漱石は伝えているのかなと思います。
あなたの心に残る言葉はありますか?
今回の記事はここで終わりとなりますが、この2人の歴史上の人物は皆さんにどう映ったでしょうか?
今を生きている僕らにしてみれば、素晴らしい作品や歴史を作った人たちですが、そんな彼らにも人並みの苦労や悩みがあった瞬間があったのだなと改めて感じますね。
少しでもこの二人の人物の見方が変わったという方がいれば嬉しいです。
またもっと歴史上の偉人について調べてみたくなったと思ってもらえれば最高です。
これからも歴史についてご紹介したい人物がいれば、紹介していきたいと思います。
それではまた!!
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